HLN CHRONOLOGY
1987年来日時のツアーパンフレットより(原文まま)
[1979-1981/1982/1983/1984/1985/1986/1987]
1979年春 カントリー・ロック・バンド、クローヴァー消滅後、ヒューイはイギリスからベイ・エリアに戻り、失業中のミュージシャン仲間を集める。
1979年春 月曜の晩にアンクル・チャーリーズというローカル・クラブでジャム・セッションが始まる。ニュースの中核が作られる。元クローヴァーのキーボード、ショーン・ホッパーとギタリストのクリス・ヘイズ、そしてもう1つのローカル・バンド、サウンドホールから3人のメンバー、ジョニー・コラ(ギター&サックス)、ベーシストのマリオ・シポリナ、ドラマーのビル・ギブソンである。(何年か後、アンクル・チャーリーズで「パワー・オブ・ラヴ」のビデオを撮影する。)
1979年5月 未知のバンドであった彼等は初のコンサートをヒューイ・ルイス&ジ・アメリカン・エキスプレスとして行い、将来のマネージャー、ボブ・ブラウンに注目される。
1979年夏/秋/冬 果てしなきローカル・クラブでの演奏により、数社のレコード会社から注目を浴びる。
1980年1月 気分転換のため、名前をヒューイ・ルイス&ザ・ニュースに改め、クリサリス・レコードと契約を交わす。
1980年春 デビュー・アルバム『ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース』を3週間でレコーディングする。評論家達には好評を博したが、チャートには3週間入っただけだった。(このアルバムに収められた「トラブル・イン・パラダイス」のライヴ・ヴァージョンは、アルバム『USAフォー・アフリカ』のメイン・トラックの1つになる。)
1980年5月 彼等の初期のビデオ「スーナー・オア・レイター」と「Running With The Crowd」がローカルなマリン・カウンティで撮影される。
1980年6月 アルバムとファースト・シングル「スーナー・オア・レイター」発表。
1980年8月 「君がいるから」(当たらなかった2枚目のシングル)発表。
1980年9月 初の国内ヘッドライン・クラブ・ツアーに出かけて、ニュースを広める。
1980年10月 前座としてアメリカ西部をツアー。シアトルからテキサスまで、初めて大きなアリーナでの演奏を経験する。
1981年 新しい曲作りとセカンド・アルバムのプロデューサー探しに1年間を費やす。この長期の探索のおかげで、“ビッグ・タイム”プロデューサー、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースを使うことになる。
1982年1月 シングル「ビリーヴ・イン・ラヴ」が発表され、続いてアルバム『ベイ・エリアの風/PICTURE THIS』リリース。「ビリーヴ・イン・ラヴ」は初のトップ10シングルに輝く。『ベイ・エリアの風』は13位まで上昇し、ビルボードのチャートに35週とどまる。
1982年2月 ロサンゼルスで「ビリーヴ・イン・ラヴ」のビデオを撮影。
1982年3月 初めて全国的なネットワーク番組“Fridays”でライヴ演奏する。また“American Bandstand”と“Solid Gold”にも出演。PICTURE THISツアー開始。
1982年4月 南カリフォルニアにあるカントリー・クラブでタワー・オブ・パワーのホーン・セクションと初のジョイント・ステージを行なう。この公演はレコーディングされ、後にMTVで放映された。「サンフランシスコ・ラヴ・ソング」のシングルが発表され、トップ40ヒットに輝く。
1982年5月 ニューヨークで「サンフランシスコ・ラヴ・ソング」のビデオを撮影。
1982年6月 バンドとして初めて海外へ。(ヒューイとショーンはクローヴァー時代に渡欧したことがある)イギリス、オランダ、フランスとドイツへ廻る、短期間の忙しいツアーだったが、この時のハイライトは多分、ハンブルグにあるクラブ、“Uncle Po's”で6回ものアンコールに応えたことだろう。
1982年7月 トップ40に入った初のオリジナル・ナンバー「ワーキン・フォー・ア・リヴィン」発表。
1982年7月/8月 東芝EMI(日本でのレコード会社)の招待で日本へ。テレビ出演と東京でスペシャル・パフォーマンスを行う。
1982年秋/冬 『SPORTS』の作曲とレコーディング。初めてスポーツ・イヴェントに参加、地元のバスケットボール・チーム、ワァーリアーズの試合で、今では有名になったあのアカペラで国家「Star Spangled Banner」を歌う。
1983年春/夏 レコード会社との間に契約上のトラブルが起きたため、再びナイトクラブ廻りをして何とか喰いつなぐ。このツアーは、正しく“Workin' For A Livin'”ツアーと呼ばれた。
1983年8月 待望のシングル「ハート・アンド・ソウル」が待ちに待たされていたアルバム『SPORTS』から発表され、ビルボード誌で8位まで上昇。ビデオはサンフランシスコで撮影。
1983年9月 遂に、『SPORTS』発表。
1983年10月 SPORTSツアー開始。カリフォルニアのサリナスで「アイ・ウォント・ア・ニュー・ドラッグ」のビデオを撮影。
1983年11月/12月 SPORTSツアーが続く。
1984年1月 「アイ・ウォント・ア・ニュー・ドラッグ」がシングル・カットされ、『SPORTS』からの2曲目のトップ・テン・シングルに輝く。最高6位。
1984年1月/2月 SPORTSツアー続行。
1984年3月 「ハート・オブ・ロックン・ロール」のビデオを両海岸、ニューヨークとロサンゼルスで撮影する。
1984年4月 ヘッドライナーとして初のメジャー・コンサート・ツアーに出かけ、アメリカ北西部とカナダを廻る。「ハート・オブ・ロックン・ロール」が発表され、6位を獲得。
1984年5月 ソルトレイク・シティの“ソルト・パレス”で初の競技場でのコンサートを開催。続いてテキサスと南西部を廻る。
1984年6月 SPORTSツアーがカリフォルニアに戻る。『SPORTS』はアメリカのビルボード誌でNo.1アルバムに輝く。カリフォルニアのサンタクルーズで「いつも夢見て」のビデオが撮影される。
1984年夏 ヨーロッパで「アイ・ウォント・ア・ニュー・ドラッグ」がチャートを上昇したことにより、世界的な成功を予感する。
1984年7月 「いつも夢見て」がシングル・カットされ、6位まで上昇。
1984年7月―9月 グループはオタワからハワイ、マイアミからミネアポリスまでアメリカとカナダを絶えずツアーして廻る。タワー・オブ・パワーのホーンズはバンドと共に活動を続け、記事を賑わせている。
1984年7月 ツアーの最中に地元サンフランシスコのキャンドルスティック・パーク(メジャー・リーグのジャイアンツの本拠地)で開催される恒例のオール・スター・ゲームに招かれ、開幕で国歌を歌うために舞い戻る。
1984年9月13日 ヒューイがローリング・ストーン誌の表紙を飾る。
1984年9月 ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージック・ホールで開催された第1回MTVアワーズで演奏すると共に、“ベスト・グループ・ビデオ/ハート・オブ・ロックン・ロール”にノミネートされる。
1984年10月 『SPORTS』から4番目のシングル「ウォーキング・オン・ア・シン・ライン」発表。18位まで上昇する。
1984年10月 “ヨーロピアン・ツアー'84”でイギリス、ドイツ、スウェーデン、ノルウェイ、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを廻る。バンドはライヴ・テレビ・コンサート番組“ロック・パラスト”で演奏。ドイツのロック・プレスは、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースを“ベスト・ライヴ・アクト・オブ・ジ・イヤー”に決定する。『SPORTS』はツアーしたすべての国々でチャート入りし、その間、「いつも夢見て」がオーストラリアでグループ初のヒット曲に輝く。
1984年12月 ニュー・イヤーズ・イヴに、サンフランシスコのケーブルカーを実物大にしたセットでコンサートを行い、グループはこの素晴らしい1年に幕を閉じる。グループがフットボールの世界チャンピオン・チーム、サンフランシスコ49ERSのために国歌を歌った。そのお礼として、84年最後の公演にはこのチームがアンコールの際にステージに登場、大騒ぎとなった。
1985年1月11日 プエルトリコのサンフォアンで“HOT”パフォーマンスを行う。
1985年1月28日 第12回アメリカン・ミュージック・アウォードで“フェイバリット・ビデオ・グループ”に選ばれる。このショウの後、グループは他の多くのアーティスト達とUSAフォー・アフリカのため、「We Are The World」をレコーディングする。マラソン・ヴォーカル・セッションは夜11時に始まり、翌朝8時まで終わらなかった。
1985年2月2日 アリゾナ州テンプでのチャリティ・イベントで、ニュースはブルックス・ロビンソンやフォアン・マリシャル達と野球の試合をする。
1985年2月10日 ワシントン州プルマンに向かう途中、シアトル東部の山中で彼等のツアー・バスが雪崩のため立往生。小型飛行機をチャーターして嵐の中を飛び、開演数分前に会場に到着する。
1985年2月21〜22日 「ハート・オブ・ロックン・ロール」のロング・ヴァージョン・ビデオがサンフランシスコのジャパンタウンにあるカブキ・シアターで撮影される。
1985年2月26日 第27回グラミー賞で「ハート・オブ・ロックン・ロール」を演奏。この曲は“レコード・オブ・ジ・イヤー”にノミネートされる。
1985年3月23日 第8回ベイ・エリア・ミュージック・アウォーズ(Bammies)に出演。個人、グループとして5つの賞を獲得する。
1985年5月 モントルー・テレビ・フェスティバルでヘッドラインを務めるためヨーロッパへ。数々のドイツの大ロック・フェスティバルで大ウケする。特にF-1のニュールブルグング・レース場では10万人の観衆の前で演奏する。
1985年6月 シングル「パワー・オブ・ラヴ」に続いて、アンクル・チャーリーズで撮影されたビデオがリリースされる。この曲はアメリカのチャートでNo.1となる。同時に彼等の初のインターナショナルなヒット曲として、オーストラリアや日本でもトップに立つ。
1985年7月 映画“バック・トゥ・ザ・フューチャー”が公開される。(挿入歌「パワー・オブ・ラヴ」、「バック・イン・タイム」)ヒューイは学校の先生というチョイ役で出演。
1985年7/8月 アメリカ、カナダ・ツアーをすべてソールド・アウト。いくつかの歳で動員数の記録を作る。
1985年10月 『SPORTS』はアメリカ及びカナダでマルチ・プラチナ・アルバムとなり、イギリスではシルバー、オーストラリアではゴールド・ディスクを獲得。
1985年12月 初の大規模なジャパン・ツアー。すし以外のツアーのハイライトは、有名なBudokanを4日間ソールド・アウトにしたこと。『SPORTS』は日本でゴールド・ディスクとなる。
1986年1月 第13回アメリカン・ミュージック・アウォーズにおいて、「パワー・オブ・ラヴ」で“フェイバリット・シングル”及び、“フェイバリット・ビデオ・シングル”を受賞。
1986年2月25日 第28回グラミー賞で、ヒューイ達は5部門にノミネートされ、うち2部門を受賞。ひとつは「ハート・オブ・ロックン・ロール」のロング・ヴァージョン・ビデオに、もうひとつはアルバム『USAフォー・アフリカ』への参加によって。
1986年2月 ヒューイ達は再びロンドンを訪れ、BPIアウォーズで“ベスト・インターナショナル・アーティスト・オブ・ジ・イヤー”受賞。この賞(ブリティッシュ・フォノグラフィック・インダストリー)はアメリカのグラミー賞に匹敵する。ヨーロッパ滞在中、パリではテレビに出演。
1986年3月5日 サンフランシスコの第9回“Bammies”で彼らは計8部門を独占。
1986年3月24日 アカデミー賞授賞式で演奏。「パワー・オブ・ラヴ」は“ベスト・オリジナル・ソング・フロム・ア・ムービー”にノミネートされる。
1986年4月8日 彼等は2年連続、オークランド・アスレチックスの開幕試合で国歌を歌う。ヒューイは第1球を投げ、ストライクだった。
1986年4〜7月 『FORE!』の作曲とレコーディング。
1986年7月 『FORE!』からのファースト・シングルとして「スタック・ウィズ・ユー」をリリース。彼らはバハマでビデオ撮影というはめになる。
1986年8月 『FORE!』発表。
1986年8〜9月 FOREワールド・ツアー'86〜'87はカナダのニューファンドランドで始まり、テキサスや南西部へ進む。
1986年9月 「スタック・ウィズ・ユー」がチャートのNo.1を直撃。
1986年10月 再びロンドンへ。ハマースミス・オデオンの4回を含む、12ヶ国のソールド・アウト・ヨーロッパ・ツアーへ出発。
1986年10月 ビデオ・プロダクション・チーム、ゴドリー&クレームが「ヒップ・トゥ・ビー・スクウェアー」のビデオをプロデュース。手術用カメラを使用して、それまでのビデオと全く違うものができあがる。
1986年10月 「ヒップ・トゥ・ビー・スクウェアー」がリリースされ、最高3位まで上がる。『FORE!』はアメリカでビルボード・アルバム・チャートNo.1となり、日本でもNo.1でデビュー。
1986年11月5日 パリのゼニス・シアターで、アンコール「BARE FOOTIN'」に“THE BOSS”ブルース・スプリングスティーンとボブ・ゲルドフが飛び入り。ジャム・セッションする。
1986年11月20日 ヒューイは2度目のローリング・ストーン誌表紙を飾る。
1986年12月 『FORE!』はアメリカでゴールド、プラチナ、そしてダブル・プラチナ・ディスクとなる。
1986年12月 ブライアント・カンベルはゴルフ・コースでヒューイをつかまえ、トゥデイ・ショーのインタビューを取る。
1986年12月 ニュースは地元に帰り、オークランド・コロシアムを4回満員にする。『FORE!』でバック・ヴォーカルを務めたサンフランシスコ49ERSのドワイト・クラーク、ジョー・モンタナ、リキ・エリソン、ロニー・ロットがステージに参加し、新年を迎える。
1987年1月 『FORE!』からの第3弾シングルとして「ジェイコブズ・ラダー」がリリースされ、3曲目のNo.1ヒットとなる。この曲のライヴ・ビデオは12月にオークランドで収録された。
1987年1月 L.A.フォーラムの2日間のコンサートで「ジェイコブズ・ラダー」の作者、ブルース・ホーンズビーがアンコールに参加、この曲をプレイする。
1987年1月 ヒューイがピープル・マガジン、GQ両誌の表紙を飾る。
1987年1月 アメリカン・ミュージック・アウォーズの”フェイバリット・ポップ/ロック・デュオ・オア・グループ”と“フェイバリット・ポップ/ロック・デュオ・オア・グループ・ビデオ”の2部門で受賞。
1987年1〜2月 FOREワールド・ツアーをカリフォルニア及び南東部で再開。
1987年3月 アメリカ・ツアー中、第4弾シングル「アイ・ノウ・ホワット・アイ・ライク」をリリース、9位まで上昇。
1987年3月 第1回日本ゴールド・ディスク大賞で、グループは“ザ・ベスト・アルバム・オブ・ジ・イヤー”を受賞する。
1987年3月 『FORE!』はベイ・エリア・ミュージック・アウォーズのベスト・アルバムに。ビル・ギブソンはベスト・ドラマー、ジョニー・コラは最優秀管楽器プレイヤーに輝く。
1987年4月 まだツアー中!イースト・コーストを回り、“デビッド・レターメン・ショー”に出演。
1987年5月 まだまだツアー中!!しかし、バンドは地元へ戻り、月末にはモンタレーのラグナ・セカ・レースウェイでプレイする。
1987年6月 カリフォルニアで数回コンサートを行い、L.A.滞在中にサウンドステージにて「すべてを君に」のビデオを制作。この曲は『FORE!』からの第5弾シングルになる。
1987年7月 ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは日本へ帰ってくる。
[1979-1981/1982/1983/1984/1985/1986/1987]